ペリーの黒船来航は突然ではなかった?日本に来た目的と意味などエピソードを詳しく紹介

歴史

【黒船ペリー来航】

と聞くとどんなイメージをもっていますか

【いきなりアメリカ人のペリーが

日本人が見たこともないような大きな船で

やってきて

大砲をぶっぱなし

その大砲の威力や飛距離に当時の日本人は縮み上がって

無理やり開国し

不平等な条約を結ばされた】

これが40代の私が日本史の授業で習った黒船来航です

多くの人はこんなイメージをもっているのではないでしょうか

実際のペリー来航はどのようなものだったんでしょうか



黒船ペリー来航突然ではなかった

 

ペリー来航以前に日本に来航した外国船

 

渡航年 渡 航 内 容
1791年 アメリカ人ケンドリックが紀伊半島に上陸
1792年 ロシア人ラクスマンが根室に来航(日本人漂流民あり
1804年 ロシア人レザノフが長崎に来航(日本人漂流民あり
1830年 アメリカ人セボリーが小笠原諸島父島に上陸
1837年 チャールズキング率いる商船モリソン号が漂流日本人音吉らと浦賀に来航
1845年 22人の日本人漂流民をのせた捕鯨船マンハッタン号が浦賀に来航
1846年 アメリカ東インド艦隊司令官ビットルが浦賀に来航
1849年 アメリカ東インド艦隊船長グリンが長崎に来航

上表はペリー来航以前に日本に来航した主な外国船です

意外かもしれませんがペリー来航以前に主な来航だけでもこれだけあったのです

これらの来航は日本に対し

敵意のあるものではなくむしろ

友好的

でした

当時日本は鎖国のため海外渡航できるような大型船の製造を禁止していたため

日本に戻ってこられない漂流漁船商船があちこちで出ていました

1792年に根室に来たロシア人ラクスマンも

1804年に長崎に来たロシア人レザノフも

1837年に浦賀に来たアメリカ人チャールズキングも

1845年に浦賀に来たアメリカ捕鯨船マンハッタン号も

小さい船で漂流した日本人を助け送り届けています

特に1837年のモリソン号は大砲をすべて取り外してまで友好をアピールしてきました

ちなみにジョン万次郎で有名な土佐藩の中浜万次郎はアメリカの捕鯨船に漂流していたところを救助されました

当時のアメリカは有色人種への差別は相当なものでしたが

アメリカ側は日本との友好関係を結びたい思いから万次郎は好待遇を受けました

救助された捕鯨船のホイットフィールド船長には気に入られ養子になって一緒に暮らしていた時期もありました

ペリー来航を幕府は事前に知っていた





ペリー来航の7年前1846年にビットルが来航した時はビットルは日本に開港要望書を提出しています

しかも当時江戸幕府の老中阿部正弘とビットルは直接会っています

阿部は1853年のペリー来航時も老中を務めています

ビットル来航から7年間、これだけあればいろいろな準備ができたはずですが(*_*;

さらに

当時オランダ商館長が長崎奉行に提出していた【オランダ風説書】でペリーが来航が予告されていました

それに加えて

ペリーは浦賀に来る前に琉球に立ち寄っており

琉球を実質支配していた薩摩藩から情報を得ていたと考えられます

ペリー来航に備える時間は充分にあったにもかかわらず、幕府は事前の対策を怠り

実際に現場で対応した浦賀与力の中島三郎助には知らせていませんでした

事前に知らされなかったことを中島は泣いて悔しがったと言われています

中島三郎助はあの維新三傑の木戸孝允に造船技術を教えた人物で

中島が明治新政府軍と戦った箱館戦争で戦死したあと

木戸は中島への恩義を忘れずに

中島の家族を世話した

と言われています

ペリーの黒船来航の目的と意味とは?

ペリー来航の目的は?

 

アメリカ側とペリーの第1目的は

石炭などの補給地として日本の港を開くこと

だったのです

当初は日本にとって平等な条約を押しつけることが目的ではありませんでした

日本で蒸気船の燃料である石炭や食料などを補給できるようになれば

今まで東海岸から地球の反対側を回ってアジアに行っていたのが

西海岸から太平洋を渡って直接行けます

それによりアメリカは中国などとの貿易を拡大でき

アメリカにとってイギリスやフランスなどに出遅れていたアジア進出が極めて有利になります

アメリカはペリー来航以前は日本に対し

友好的なアプローチをしていましたが

それでは日本がダメに一点張りだったので

しびれを切らし

これまでに紳士的で友好的なアプローチから一気に強引なアプローチに転換します

その後

蒸気船や大砲を使った外交でペリーが日本を開国させます

いっきに成果をあげたのでペリー来航はだれもが知る出来事となりました

日本側が最初の段階できちんとした対応をしなかったことが

結局そこに付け込まれて不平等な条約につながってしまいました

ペリー来航の意味





1853年のペリー来航から明治維新までが幕末とされています

おそらくペリー来航まで250年続いた江戸幕府が終わるなんて考えていた人

ただの一人もいなかったのではないでしょうか

百聞は一見にしかず

で見たこともない大きな蒸気船の海上から

見たこともないような大砲をすごい飛距離で撃ってくる

これを見て鎖国していても全く意味がない

と多くの人が気付き、その力が

開国⇒明治維新

へとつながりました

ペリー来航後、老中首座の阿部正弘はこの先どうするべきが広く意見を求めます

江戸幕府はそれまで外様大名でも一切政治に関わることはできなかったのが

一般庶民にまで意見を求めました

これにより勝海舟が

『貿易によって稼ぎそのお金を海軍費用に充てる』『海軍学校の創設』など意見書を出し

これまで相手にもされなかった身分の低い人間からも良い意見や人材が多く出ました

しかし逆に広く意見を求めたことが

幕府の権威を失墜し、倒幕勢力が大きくなり明治維新に突き進みます

まとめ

 

いかがだったでしょうか

ペリー来航は幕末においてもっとも重要な出来事です

ペリー来航がなければ幕末は幕末ではなかったかもしれません

というのは

それによって外国との差を認識して目を覚まし

そのエネルギーが明治維新へとつながったからです

ということで

ペリー以前にも日本に外国船が来航していた

ペリー来航の当初の目的は

日本を石炭などの燃料補給地すること

それにより

今まで地球の反対を回ってアジアに行っていたのが太平洋を横断しアジアと貿易が出来る

ようになる

でした

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

参考文献:小学館 井沢元彦著 『逆説の日本史18』